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公安委員会(こうあんいいんかい、)は、革命期のフランスに1793年4月7日から1795年11月4日まで存在した統治機構で、途中1794年7月27日までは事実上の革命政府〔ここでいう「革命政府」は三権が必要から未分離とされていて、(マチエの師である)革命史家オーラールの定義によれば、立法権と行政権の混同がある政府という意味である。 ”事実上”とするのは革命政治家たちが臨時政府と公式に認めるのを嫌ったため。(後述) 彼らは国民公会こそが唯一の政治動力であるとして、公安委員会はその「腕」に過ぎないとした。政府委員会などいう表現もある〕。会議場はテュイルリー宮殿に隣接するであった。 自由の確立のためには暴力が必要であるとして「自由の専政〔"" 法案提出時に賛意を示したマラーの言葉。〕」のために創られ、もとは「祖国の危機〔ダントンの言葉。〕」から脱するための臨時的な独裁機構であったが、次第に国民公会の最も重要な機関となり、恐怖政治〔恐怖政治そのものについての説明はここではしないが、恐怖政治はもともと公安委員会への圧力であり、大衆とそれに迎合したエベール派の要求であった。公安委員会は恐怖政治を実現する機関の一つとなるが、それには紆余曲折があった〕を運営して革命を推進した。 初期にはダントンが、続いてロベスピエールが主導したが、テルミドール9日のクーデターの後は形骸化した。 == 概要 == 「」とは、個々の安全よりも常に優先される〔人民主権の最大の危険は個別利益の追求によって権限が奪われることであるとされていた。〕人民全体にかかわるすべてを安んずることを意味したため、人民主権の名の下に行使に制限はなく、あらゆる行為は正当化できた。この観念が人民の独裁の基盤であった。歴史学者マチエによれば、フランス革命に成立した革命制度のほとんどが全期間において絶えず独裁であった〔 マチエが独裁ではなかったと例外とするのを認めたのは、三権分立の憲法が機能していた立法議会初期のごく短い期間のみ 〕が、公安委員会はその最たるもので、対外戦争と内戦による危機に迅速に対応するために独裁機構として整備されていった常任委員会の一つである〔国民公会の常任委員会は1793年当初は21もあった。内訳は、憲法委員会、外交委員会、戦争(陸軍)委員会、保安委員会、民法・刑法委員会、文部委員会、財政委員会、法令委員会、請願委員会、議場委員会、議事録委員会、救貧委員会、地方行政委員会、農業委員会、商業委員会、土地財産委員会、清算委員会、決算監査委員会、海軍委員会、植民委員会、古文書委員会。これらは廃止されたり統合されたりするが、さらに新しく創設された公安委員会などが加わる。公安委員会が他の常設委員会よりも優越的な地位であることが決まったのは1793年9月13日の公会の議決による。すべての委員会の委員は公会が指名し、(上部組織への出向を除き)兼任は基本的に禁止されていた〕。これは国民公会内の機関で、公会議員で構成され、定期的な公会への報告義務があった。大臣は別にいたが、事実上の政府であったため、その成立からテルミドール9日のクーデターまでの期間を、公安委員会政府と呼ぶ。審議は常に非公開とされ、非常に閉鎖的な組織であった〔秘密会議とされたのは外野の干渉を避けるためで、公開にして政治アピールの場とかした後述の国防委員会の反省から〕。 執行権の対象は「全てのこと」に及び、緊急時には臨時立法や超法規的な行政命令を行使できたが、警察権〔警察権は主に保安委員会が管轄していた。後に1793年7月28日の法令で公安委員会を強化する目的で、嫌疑者の拘引する命令を発する権限だけは同委員会にも与えられることになったが、治安・警察に関する広範囲な権限は依然として保安委員会が持っていた。つまり事実上は両委員会の二元支配となっていたわけで、この権限争いがテルミドールのクーデターの一因となっている。1794年4月16日、ジェルミナル27日の法令で公安委員会にも逮捕権(告発権と予審権)が与えられ、両者の争いは一層激しくなった。なお保安委員会は治安委員会とも訳される〕や司法権を持たず、財政にも関与できないなど、報告義務以外にもいくつか制限があり、命令書が発効するには少なくとも公安委員の3分の2以上が参加する行政会議で委員の過半数の署名が必要だった〔つまり9人制の場合は最低でも6人以上の会議で4人以上、14人制の場合は最低でも9人以上の会議で5人以上、12人制の場合は最低でも8人以上の会議で5人以上、11人制の場合は7人以上の会議で最低でも4人以上の委員の賛意と署名が必要とされた。これは公安委員会のメンバー構成上、どの派閥も単独ではいかなる決定もできなかったことを意味する。強権を持ちながらも常に協議と妥協をしいられた。ロベスピエールが何かにつけて公会やクラブで演説したのは、他の委員を説得するために人民の支持と後押しを必要としたため〕。このために公安委員会は、国を支配する委員会独裁ではあったが、よく言われるようなロベスピエールの個人独裁というのは間違い〔または言葉のあや。ロベスピエールは大公安委員会の首班的地位であり、独裁政権の責任者だったのではあるが、説明のように一人で何でも決めることができたわけではないし、特別な権限を持っていたわけでもない。彼の持っていたものは人民への影響力という見えざる力だけだった。ロベスピエール独裁といった場合、委員会独裁を人格化したに過ぎず、誤解を招く〕で、独裁の実態は少人数の合議制(または寡頭制)であった。各分野は、複数の部門、部局、後には内部の各執行委員会に細分化されており、公安委員には各々に管轄が決められていて、委員会内の権力は分割されて1人に権限が集中することはなかった。公安委員会全体としては実際的には通常の国家での内閣の性格を持っていた〔公安委員会の委員は大臣よりも上位の権限を持っていた。これは従来の大臣制度が貴族的なものと見なされて嫌悪されたことに原因があり、この感覚は革命時独特のもの。大臣を監視する民衆代表の位置づけが公安委員であったが、公安委員自身に強い権限が与えられたので、公安委員が事実上の大臣に、大臣が格下げされて事実上の省庁長官になるというような構造になった〕。 また公安委員会は街頭の襲撃から身を守るほどの武力も持たなかった。初期の革命の担い手であった能動的市民は続々と義勇兵などで出征して首都パリには不在で、国民衛兵隊はの直接の指揮下にあり、その48は支持党派によって態度が異なった。サン・キュロット武装民兵に日当を払って制度化しようとしたも、主に極左勢力に支配〔アンラージェやエベール派が粛清されたことから極左勢力はモンターニュ主流派を恨んでおり、一部の地区はテルミドールのクーデターのときに支持を見送った。特にグラヴィリエ地区は最左翼であったが、反ロベスピエールに決定的や役割を果たした〕されており、公安委員会直属の暴力装置はほぼ存在しなかった〔国民公会には、議会を守る公会親衛隊( )という組織があったが、公会の一機関である公安委員会には、これに相当するものはなかった。公安委員会には上記の権限を行使するために治安局に若干の警察官吏がいただけ〕。サン=ジュストがまさしく指摘したように、現実にはロベスピエールは軍隊も財政も行政当局も掌握していなかったのであり、そもそも制度上、独裁者が君臨する余地はなかったのである。 公安委員会の主な使命は5つあり、第一に地方で絶対的かつ無制限の権限を与えられていた派遣議員の監察、第二に国政を預かる大臣や戦争を指揮する将軍らを統括して公会と橋渡しする連絡調整(内閣の役割)、第三に各地から寄せられる陳情や誓願への対応とその他の行政処置(大臣の役割)、第四に緊急時に防衛上の諸手段〔公安委員自身が最前線にいるときや、最前線からの報告を受けた時に限られる。戦略方針の決定は公安委員会の主要な役割の一つで、下部組織・地形測量局が戦略分析を行っていた〕を講じること(戦争の運営)、第五に外交活動(国家の舵取り)であった。同様に誤解されることが多いが、反革命容疑者などの逮捕は基本的には管轄外〔反革命容疑者法に指定されているように、これを管轄して執行するのは保安委員会や監察革命委員会(革命委員会と後に改称)であり、(民兵組織のこと)にも同様の権限があった。前述のようにその後には公安委員会にも拘引・逮捕の権限も付与されたが、実務的には公安委員会が命じた場合においても、警察活動は保安委員会か革命軍を介して行われた。監視委員会はまさに革命の秘密警察と言うべき組織で、思想弾圧やスパイのようなことをしていた〕で、議員や大臣、将軍、司令官の任免権などは持つが、(収監者を釈放する権限を持つ機関の一つではあるものの)一般市民の裁判は全く関知せず、生殺与奪の権を振るっていたわけではない〔恐怖政治の犠牲者の生き死にを実際に決めていたのは、革命裁判所と検事、およびその陪審員団である。弁護士も証拠も途中から必要なくなったため、判決は主に陪審の心証に依存した〕。公安委員会は、恐怖政治の実行機関の一つとなったが、恐怖政治そのものは公安委員会から生まれたものではなく、ましてやロベスピエールが始めたわけでもなかった〔後述するが、恐怖政治を最初に予言したのはマラーであり、政局として要望したのは(マラーと同じくコルドリエ派の流れを汲む)エベール派で、特に後者はロベスピエールの政敵であった。恐怖政治の到来は内戦勃発と深い関係がある〕。 当初、戦争と内乱に抗するという防衛的意味合いと、派遣議員の監視統制というのが、最大の目的であったが、次第に中央集権化された行政府という革命政治の中心としての役割が強調されるようになると、憲法も選挙も停止され、議員の多数が恐怖政治で死亡して欠員している状況で、合法性を保つための唯一の機関として、委員会独裁は一層強化されていった。しかし少人数が強大な権力を持つようになると、ますます監察は行き届かなくなり、組織の内部での腐敗が進行した〔「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」 歴史学者J・E・アクトンの言葉〕。また公安委員会の権限強化によって、下部組織のように貶められた保安委員会は不満を強め、これらのことが合わさって政変へとつながり、ついには内部崩壊するに至った。 ただし政変での勝者は腐敗した側を含むものであり、その後に成立する総裁政府は、独裁への反動から極端な分権制度を採用したが、さらに輪をかけて非民主的な体制となった。公共の安全のための独裁とは人民の利益のための独裁と同義なのであり、皮肉にも公安委員会政府は実に護民的な政府だった訳で、独裁が民衆によって打倒されたというような解釈は根本的に間違いである。統制の放棄、自由主義経済へ復帰は、市民の生活を貧窮させ、総裁政府のアッシニアの回収を巡る政策では一部のブルジョワジーだけに不正に富を独占させた。「バブーフの陰謀」などはこれらに対する怒りから革命独裁への回帰を求めたものだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「公安委員会 (フランス革命)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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